上溝五部会の神輿作者である「柏木右兵衛安則」は、宝暦10年(1760)の生まれで、相州愛甲郡半原村字下新久の宮大工と言われています。本姓は「柳川」で、天正年代(1500年代)より続く大工家系であり、「半原宮大工柏木匠家」の総源流となった人物と言われています。
右兵衛安則は江戸本所立川通りの幕府御用大工「立川小兵衛富房」より「立川流匠技術(彫物大工)」の伝承を受け、若くして小田原大久保家お抱えの大工棟梁となるなど名人芸を発揮。熊野神社本殿・拝殿(清川村宮ヶ瀬)、相原八幡宮本殿(相模原市緑区相原)など、技巧細工を施した堂宮造りの造営を数多く残した後、寛政年間末期には江戸城御本丸作事方(大工棟梁)を拝命し、匠性として「柏木」を名乗ることを許されました。
|
|
左:半原柏木匠家神輿 源図 右:神輿隅柱源図 <図面提供:鈴木光雄様> |
柏木匠家製作の神輿は、左の源図を基として仕様に変化がつけられ製作された。屋根の照り(曲線形状)や戸脇の登降龍彫刻、台輪形状など、五部会神輿にも当源図の形状が色濃く反映されている。
右図は神輿の堂・屋根を支える四方柱を天面から見た図。5寸の柱を、外側を丸柱、内側を角柱とする柏木匠家独特の技法。心柱(中心の柱)を持たず隅柱のみで堂と屋根を支える構造は、高度な技術が要求されるという。 |
|
上溝五部会の神輿は文化6年(1809)、右兵衛安則が49歳時の作と言われています。半原宮大工の匠家系譜図などにはこの神輿由緒の記録は無いものの、堂・屋根を心柱(中心の柱)を持たず隅柱(4つの角の柱)のみで支える独特の構造であったこと(現在は改修時に心柱を持つ構造に改められている)、また正面桟唐戸脇の登降龍彫、屋根隅木の二軒繁扇垂木、屋根の照りの形状など、随所に「柏木流儀」と呼ばれる右兵衛安則独特の技巧が見られることから、同人の作と言われております。
しかし『文化6年(1809)』という記録は「改修」であるとの説もあり、前回の大改修時に分解できなかった屋根内部などに墨書が残されていないかなど、今後さらなる調査が必要と考えております。
|
|
南面 戸脇に配された降龍(左)・登龍(右)。「柏木匠家」の流儀の一つ。
|
|
軒下垂木 |
垂木は神輿の堂に対して垂直に配されるのが一般的だが、上溝五部会の神輿は中心より扇状に広がる「二軒繁扇垂木」となっている。これも「柏木流儀」神輿の特徴のひとつ。 |
|
なお柏木右兵衛安則は、相模國を中心に神社・仏閣を数多く建立したほか、文化3年(1806 上溝五部会神輿建造の3年前)には茅ヶ崎 鶴嶺八幡宮の神輿を建造しています。また、「半原宮大工柏木匠家」はその技巧・意匠を幾代に渡って伝承し、上溝では丸崎の先代の神輿(明治9年)や亀ヶ池八幡宮宮殿(昭和17年)、田尻の屋台(昭和22年)などを建造。現在は「半原宮大工矢内匠家」としてその伝統技法が脈々と受け継がれております。
|
|
これまで上溝五部会の神輿建造については、同じ半原宮大工である 「矢内宇兵衛高光」の作であると言われておりました。しかし高光は文政5年(1822)の生まれで柏木右兵衛安則の孫にあたり、五部会神輿建造時の文化6年(1809)にはまだ生を受けていないことから、その由緒に誤りがあったものと推定しております。
今般、安則・高光の末裔で、「半原宮大工矢内匠家」 第14代會孫弟子である鈴木光雄様によって子細なる調査を頂き、『上溝五部会神輿由緒 半原柏木匠家作事』として伝承資料をご提供いただきました。当サイトでは、同資料を出典として神輿由緒の記載を改めさせていただくとともに、大変貴重な資料・図面などをご提供いただきました鈴木様に衷心より感謝申し上げます。 |
|
半原宮大工矢内匠家
14代目會孫弟子
鈴木 光雄 氏 |
平成22年6月吉日
|
|
|