上溝五部会・い組 由緒


 上溝五部会は、「元町」「田中」「本久」の3自治会によって構成されています。この3つの地区は自治会として整備される以前は以下の5つの集落でした。

  * 下宿・堂ヶ谷戸  >>  現在の元町
  * 田中  >>  現在の田中
  * 本郷・久保ヶ谷戸  >>  現在の本久

 下宿・堂ヶ谷戸はかつての上溝宿(宿場町)の一画で、主に商業が発展した地域。田中・本郷・久保ヶ谷戸は養蚕用の桑や麦・野菜などの畑が広がる農業地域でした。この5集落は江戸時代より結びつきが強く、当時の上溝夏祭りである『てんのうさま』においても神輿の渡御を合同で行われていたと言われています。

 駒札には、現在の3自治会の名称が記されている。

 その後明治時代に入り、時の政府によって「消防組」と呼ばれる全国消防制度が整備されます。これは時代劇で馴染みのある、南町奉行 大岡越前守忠相によって作られた江戸消防「いろは四十八組」(町火消)を原型とするもので、上溝の町にも『い組』『ろ組』『は組』といった消防組が誕生しました。
 消防組は明治~大正~昭和にかけて幾度も改編を繰り返し、昭和29年(1954)の相模原の市制施行時に「相模原市消防団」として9つの分団に整備されました。その際、現在の元町・田中・本久自治会で組織されたのが「第1分団五部」で、この消防団の名称が『五部会』という名の由来となっています。『五部会』という名称は当初の「5つの集落」から・・・と時折誤認されることがありますが、この消防団の名称が正しいルーツです。
 なお、神輿の屋根上に掲げられる駒札が『五部会』ではなく『田中・本久・元町』と記されているのは、消防団が組織される以前、つまり『五部会』の名称が生まれる以前の名残と言われています。

 また、五部会の愛称として親しまれている『い組』の名は、前述の明治時代に上溝で結成された消防組『い組』の名称を「第1分団五部」が継承していたもので、それが五部会の神輿の愛称として残ったものです。
(なお、本町が『ろ組』、石橋が『は組』の愛称を使っていた時期があります。)

 「い組」の弓張提灯を取り付けての夜間渡御。

 その後、「第1分団五部」は昭和46年(1971)の相模原市消防団再編の際に「第1分団一部」(本町・鳩川・日金沢を含めた6自治会にて構成)に改められ、「五部」の名が消防団から離れましたが、元町・田中・本久自治会の神輿・山車連合組織である『上溝五部会』としてその名が引き継がれ、『い組』の愛称とともに大切に継承されています。

上溝五部会 い組神輿連


 『上溝五部会 い組神輿連』は、平成8年(1996)5月20日に上溝五部会傘下の後援組織として設立されました。それまでは五部会の当番(元町・田中・本久自治会役員)によって、神輿の管理・渡御の運営を行ってきましたが、先に山車・囃子の専門的活動を目指して設立された「上溝五部会 囃子保存会」を例にならい、神輿の仕度・渡御・片付けなどの運営はもとより、伝統保存・継承に至るまでを専門的・統括的に行うことを目的に役員会が設立され、今日に至っております。

 神輿の担ぎ手は、五部会会員(氏子)と五部会にゆかりのある方々によって構成されていますが、その担ぎ手全員が「い組神輿連」の会員となります。なお担ぎ手については、現在でも「てんのうまつり」の精神を受け継ぎ、氏子自らの手により伝統を継承するという考え方から、愛好会など団体での渡御参加はご遠慮いただいております。

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